2023年11月12日
渥美源五郎重国 渥美町歴史 NO.4
渥美町のむかし探訪 NO.4
実在したか?
渥美源五郎重国
奈良時代
天平15年(743)に
大僧正行基が来郡し、
行基の彫刻した仏像を本尊に
渥美源五郎重国が泉福寺を建立。
渥美氏旧系を記してある
「渥美重左エ門古文書」に
詳細が述べられている。
天平5年(733)に
飢えに苦しむ人々を救った
重国の話しから、
重国が郡司(郡統治の役職)と
なったことや
皇女が観音比丘尼(あまさん)となった
事も書かれている。
重国には二人の男子あり、
兄の源三郎重が渥美家を継ぎ、
弟の源四郎重時は、
大谷家の祖となったとも書かれている。
重国の娘菊本が尼に成って入ったころ、
観音山と呼ばれていた。
渥美源五郎重国が、奈良時代に
実在したかどうかは、疑問である。
理由
①源の姓の初例は、光仁5年(814)5月
嵯峨天皇が皇族を臣籍に降下させる時
「皇室と源を同じくしている」と言う意味で
賜った姓であること。
②藤原京・平城京の跡から出土した木簡に
書かれている渥美郡名のものに出て来る
人物は「海部麻呂」(あままろ)、
「海部首麻呂」(あまのおびとまろ)、
「海部国麻呂」(あまのくにまろ)などである。
また、この時代の全国の郡司一覧で人名を見てみると、
当時の人名の付け方に特色がみられる。
③渥美氏の旧系は、奈良天平の頃のことは、
整然と書かれているが、
以降、七百余年空白となり、
忽然と戦国時代にあらわれてくる。
④奈良時代の寺は、東大寺、国分寺、国分尼寺に
見られるように平地に七堂伽藍を持つ、
きらびやかさが特徴。
泉福寺のような山中の寺は、
平安時代にあらわれた山岳仏教の流れとみられること。
渥美氏を調べていくと、
確かに、「渥美源五郎」を名乗って居た人物が居た。
渥美源五郎友勝と渥美源五郎勝吉であるが、
両者共に戦国武士であった。
実在したか?
渥美源五郎重国
奈良時代
天平15年(743)に
大僧正行基が来郡し、
行基の彫刻した仏像を本尊に
渥美源五郎重国が泉福寺を建立。
渥美氏旧系を記してある
「渥美重左エ門古文書」に
詳細が述べられている。
天平5年(733)に
飢えに苦しむ人々を救った
重国の話しから、
重国が郡司(郡統治の役職)と
なったことや
皇女が観音比丘尼(あまさん)となった
事も書かれている。
重国には二人の男子あり、
兄の源三郎重が渥美家を継ぎ、
弟の源四郎重時は、
大谷家の祖となったとも書かれている。
重国の娘菊本が尼に成って入ったころ、
観音山と呼ばれていた。
渥美源五郎重国が、奈良時代に
実在したかどうかは、疑問である。
理由
①源の姓の初例は、光仁5年(814)5月
嵯峨天皇が皇族を臣籍に降下させる時
「皇室と源を同じくしている」と言う意味で
賜った姓であること。
②藤原京・平城京の跡から出土した木簡に
書かれている渥美郡名のものに出て来る
人物は「海部麻呂」(あままろ)、
「海部首麻呂」(あまのおびとまろ)、
「海部国麻呂」(あまのくにまろ)などである。
また、この時代の全国の郡司一覧で人名を見てみると、
当時の人名の付け方に特色がみられる。
③渥美氏の旧系は、奈良天平の頃のことは、
整然と書かれているが、
以降、七百余年空白となり、
忽然と戦国時代にあらわれてくる。
④奈良時代の寺は、東大寺、国分寺、国分尼寺に
見られるように平地に七堂伽藍を持つ、
きらびやかさが特徴。
泉福寺のような山中の寺は、
平安時代にあらわれた山岳仏教の流れとみられること。
渥美氏を調べていくと、
確かに、「渥美源五郎」を名乗って居た人物が居た。
渥美源五郎友勝と渥美源五郎勝吉であるが、
両者共に戦国武士であった。
Posted by たんぼ at 13:45
│童浦歴史
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