2023年08月09日
家康・秀忠の狩り 田原市野田町歴史 NO.21
家康・秀忠の狩り

家康の巻狩り
昔の渥美半島には、鹿や猪など
野生動物がたくさん住んでおり、
武士の戦闘訓練に巻狩りも何度も行われた。
徳川家康や秀忠が来て、
大巻狩りが行われた事もある。
家康の田原地方での巻狩りは
天正十三年(1585)九月と
同十五年(1587)九月
(又は8月)の二回である。
しかし、「秀忠日記」
その他の資料では、
天正十五年九月の一回のみである。
なお、この時の様子は、
「田原城主考」も、
「三河田原ニ狩シ玉フ」とあるのみで、
参加者の人数や
捕まった獲物の数量などは分らない。
この時は、豊臣政権下にあり、
三河国は家康の領地で、
田原城主は本田広孝の
子康重の代であった。
後に田原城主になった
戸田氏は、この巻狩りを
記念して家康の狩場御館跡の
蔵王山山柄沢に東照権現を祀った。
秀忠の巻狩り
江戸時代に入って、
慶長十五年(1610)潤二月
将軍秀忠が諸大名を率いて
やって来て渥美半島の各地で
大巻狩りが催されたとされている。
動員人数 4万2・3千人
とう代記
慶長十五年二月十四日 田原到着
十六日~二十三日まで
蔵王山麓から始めて
渥美半島一帯を移動しながら
巻き狩り展開。
16日17日 蔵王山・大久保山
20日 比留輪山
22日 若見山・馬草山
23日 田坪 (小中山町)
獲物合計 鹿561匹 猪80匹
野田 比留輪山
鹿150匹 猪34匹
後に 赤羽根村との間に
比留輪山争論が起きるが
その時の野田村の言い分
かつて家康の巻き狩りの際に
比留輪山の下草・枝打ちの
権利が野田村に認められたと
家康のお墨付きを
たてに野田村のものだと主張した。
その当時の家康の認可状が
あったであろうが今はない。
家康が巻き狩りに来た年は
諸説あり不明のようです。
慶長十五年二月
秀忠の狩りルート
一部推定
グーグルマップ
関連ウエブサイト
徳川秀忠 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
より一部転載
慶長15年閏2月には将軍就任後は家康が隠居した
駿府へ赴く以外は概ね関東・江戸に留まった秀忠は、
三河国田原で勢子大将を
土井利勝・井伊直孝が務める大規模な巻狩を行っている。
この時に供奉した旗本は美麗を極め、
要した費用は計り知れないと言われた。
またこの巻狩で家臣2人が喧嘩を行い、
片方は死亡し片方は秀忠の命で処刑されたが、
この喧嘩は他者には伝播せず日頃の法度により統率が取れていたとある。
この狩に動員された人数は、同行した本多忠勝によれば4万2・3千人とされ、
源頼朝による富士の巻狩りと同じく
将軍である自身の権威誇示や軍事演習の側面があった。
転載終了。
関連ウエブサイト
台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10562.html
越ヶ谷御殿【家康と秀忠の鷹狩り】 越谷市
https://www.tochigi-burg.com/koshigaya.htm
家康の巻狩り
昔の渥美半島には、鹿や猪など
野生動物がたくさん住んでおり、
武士の戦闘訓練に巻狩りも何度も行われた。
徳川家康や秀忠が来て、
大巻狩りが行われた事もある。
家康の田原地方での巻狩りは
天正十三年(1585)九月と
同十五年(1587)九月
(又は8月)の二回である。
しかし、「秀忠日記」
その他の資料では、
天正十五年九月の一回のみである。
なお、この時の様子は、
「田原城主考」も、
「三河田原ニ狩シ玉フ」とあるのみで、
参加者の人数や
捕まった獲物の数量などは分らない。
この時は、豊臣政権下にあり、
三河国は家康の領地で、
田原城主は本田広孝の
子康重の代であった。
後に田原城主になった
戸田氏は、この巻狩りを
記念して家康の狩場御館跡の
蔵王山山柄沢に東照権現を祀った。
秀忠の巻狩り
江戸時代に入って、
慶長十五年(1610)潤二月
将軍秀忠が諸大名を率いて
やって来て渥美半島の各地で
大巻狩りが催されたとされている。
動員人数 4万2・3千人
とう代記
慶長十五年二月十四日 田原到着
十六日~二十三日まで
蔵王山麓から始めて
渥美半島一帯を移動しながら
巻き狩り展開。
16日17日 蔵王山・大久保山
20日 比留輪山
22日 若見山・馬草山
23日 田坪 (小中山町)
獲物合計 鹿561匹 猪80匹
野田 比留輪山
鹿150匹 猪34匹
後に 赤羽根村との間に
比留輪山争論が起きるが
その時の野田村の言い分
かつて家康の巻き狩りの際に
比留輪山の下草・枝打ちの
権利が野田村に認められたと
家康のお墨付きを
たてに野田村のものだと主張した。
その当時の家康の認可状が
あったであろうが今はない。
家康が巻き狩りに来た年は
諸説あり不明のようです。
慶長十五年二月
秀忠の狩りルート
一部推定
グーグルマップ
関連ウエブサイト
徳川秀忠 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
より一部転載
慶長15年閏2月には将軍就任後は家康が隠居した
駿府へ赴く以外は概ね関東・江戸に留まった秀忠は、
三河国田原で勢子大将を
土井利勝・井伊直孝が務める大規模な巻狩を行っている。
この時に供奉した旗本は美麗を極め、
要した費用は計り知れないと言われた。
またこの巻狩で家臣2人が喧嘩を行い、
片方は死亡し片方は秀忠の命で処刑されたが、
この喧嘩は他者には伝播せず日頃の法度により統率が取れていたとある。
この狩に動員された人数は、同行した本多忠勝によれば4万2・3千人とされ、
源頼朝による富士の巻狩りと同じく
将軍である自身の権威誇示や軍事演習の側面があった。
転載終了。
関連ウエブサイト
台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10562.html
越ヶ谷御殿【家康と秀忠の鷹狩り】 越谷市
https://www.tochigi-burg.com/koshigaya.htm
Posted by たんぼ at 10:00
│野田史
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