2023年07月30日
戸田氏滅亡 と西円寺 田原市野田町歴史 NO.11
戸田氏滅亡 と西円寺
今川方の攻撃により
天文十六年(1547)九月五日
激戦の末田原城落城
宗光・はじめ一族ほとんど討ち死した。
普通、それは竹千代(後の家康)
強奪事件が原因であるとされている。
西三河の松平弘忠は
尾張の織田氏の攻撃に
対応して、今川義元に
援軍を要請する見返りとして、
六歳の嫡男竹千代を駿府に
送ることとなった。
竹千代一行は、
八月二日に岡崎を出立したが、
途中で、田原戸田氏が
欺いて、一行を熱田へ送り、
織田方に渡してしまった。
そのため、義元が激怒して、
ただちに大軍を
差し向けて田原城を攻撃したという。
戸田光忠の滅亡
田原落城に際して
宗光の弟光忠は、
子の忠次と共に
野田村の西円寺を経て
佐々木(岡崎市)の上宮寺に逃げた。
その時、光忠は宗光の首を
西円寺住職空明に預けて、
その供養を頼んだ。
空明はねんごろに葬った。
現在、西円寺の裏山に宗光の首塚がある。
戸田氏の菩提寺の
長興寺(大久保町)は曹洞宗であるが、
西円寺は浄土真宗である。
宗旨が違う。
しかし、戸田氏と強い縁があった。
大永七年(1527)、西三河から空明が、
保井道場(のち西円寺)に
道場主として迎えらていた。
保井道場と空明のことは、
鬮目作司氏の
「西円寺史」に詳述されている。
保井道場は永正六年
(1509)道場主正順が亡くなり、
上宮寺からの派遣僧によって、
留守居が置かれていた。
ここに新たに道場主を迎えた。
空明は松平氏家臣の
本田忠豊嫡男で弟二人居て
父の勧めで出家した。
関連動画
戸田宗光
https://www.youtube.com/watch?v=mV4Olhnw5wc
関連ウエブサイト
戸田忠次 - Wikipedia
西圓寺【さいえんじ】 真宗大谷派岡崎教区
https://www.okazaki-kyoku.net/search/jiin_detail.cgi?id=80
今川方の攻撃により
天文十六年(1547)九月五日
激戦の末田原城落城
宗光・はじめ一族ほとんど討ち死した。
普通、それは竹千代(後の家康)
強奪事件が原因であるとされている。
西三河の松平弘忠は
尾張の織田氏の攻撃に
対応して、今川義元に
援軍を要請する見返りとして、
六歳の嫡男竹千代を駿府に
送ることとなった。
竹千代一行は、
八月二日に岡崎を出立したが、
途中で、田原戸田氏が
欺いて、一行を熱田へ送り、
織田方に渡してしまった。
そのため、義元が激怒して、
ただちに大軍を
差し向けて田原城を攻撃したという。
戸田光忠の滅亡
田原落城に際して
宗光の弟光忠は、
子の忠次と共に
野田村の西円寺を経て
佐々木(岡崎市)の上宮寺に逃げた。
その時、光忠は宗光の首を
西円寺住職空明に預けて、
その供養を頼んだ。
空明はねんごろに葬った。
現在、西円寺の裏山に宗光の首塚がある。
戸田氏の菩提寺の
長興寺(大久保町)は曹洞宗であるが、
西円寺は浄土真宗である。
宗旨が違う。
しかし、戸田氏と強い縁があった。
大永七年(1527)、西三河から空明が、
保井道場(のち西円寺)に
道場主として迎えらていた。
保井道場と空明のことは、
鬮目作司氏の
「西円寺史」に詳述されている。
保井道場は永正六年
(1509)道場主正順が亡くなり、
上宮寺からの派遣僧によって、
留守居が置かれていた。
ここに新たに道場主を迎えた。
空明は松平氏家臣の
本田忠豊嫡男で弟二人居て
父の勧めで出家した。
関連動画
戸田宗光
https://www.youtube.com/watch?v=mV4Olhnw5wc
関連ウエブサイト
戸田忠次 - Wikipedia
西圓寺【さいえんじ】 真宗大谷派岡崎教区
https://www.okazaki-kyoku.net/search/jiin_detail.cgi?id=80
Posted by たんぼ at 10:00
│野田史
│野田史