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たんぼ
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2023年08月14日

田原市野田町芦ケ池 堤防改修 野田歴史 NO.26

芦ケ池堤防改修

江戸時代の田原の殿様はたびたび芦ケ池を改修して、
用水の確保に力を入れていた。
三宅出羽守の明暦(1655)の記録に
芦ケ池の西方がつまったので、新田替地がつくられた。
これは、芦村庄屋喜右衛門から申し出があり、
元禄十年(1697)に
人足1300人によって出来上がって居る。
ついで享保十年(1725)に、
芦村庄屋源太郎より、
「芦村本田がぬまってしまった。
 十年此の方の大雨で、
野も里も海になってしまった。」と
権助のところへ申し出があった。
このあと御奉行が検分をして大池さらへが行われた。
惣人足は5684人であった。
また宝暦三年(1753)の
万留帳にも大池さらへのことが記されている。
人足の割り当ては百石につき七人づつと決め、
田原藩内の村々に作業の丁場割をした。
和地村から今田村まで30ケ村のうち
長泉寺領と田原領と両野田村は除かれている。
総坪数は5506坪半で、
池の沖へ浚える間数が五十間、浚えの深さは一尺ほどとされた。
人足の食事は庄屋・組頭に炊き出させ、
ざくざく汁と煮染めの菜を一つまでつけさせた。
この弁当米は野田村蔵から
二十二俵残しておいたものを当てた。
人足は4000人余であった。
田原藩の穀倉地帯である
野田村の水田にかかる大池の改修は、
重要な水の確保のためのもので、
田原藩の御威光で仰せつけられた。

資料
享保十年巳 権助日記
一、五月十八日ニ
芦村源太郎より百姓藤右衛門を
使ニ差越候口上に伝
昨今大雨ニテ大池ニ水大分溜り
芦村本田ぬまり候間
上水御ほし可被下候と申候。
権助返事ニ伝り
昨今、雨ニテ大池満水ニ成候旨、
被仰下候へ共、如何程水溜り候哉
いまだ此方ニ不存候、
後刻見分ニ遣シ可申候。
一、六月二日
芦村源太郎より百姓忠三郎ヲ
使ニ差越申候。
昼夜ヲ明け、水ヲほし申候。
たがいより落申候。
此上ハとかく各様御慈悲無之候テハ
芦村ハ不申候間奉行と申候。
一、大池さらえ七月廿三日より
八月三日迄ニ終る。
惣人足五千六百八十四人也。
御奉行 杉山庄九郎様
下村 弥左衛門様、
矢田太右衛門様、
近藤弥助様

関連ウエブサイト
芦ヶ池 - Wikipedia
より転載
造成の由来は不詳ではあるが、
条里制の遺構の調査により三河国司により造られたと考えられている。
江戸時代(承応年間)には、
田原藩主戸田忠昌によって浚渫し整備されたという記録もある。
転載終了。
芦ケ池
グーグルマップ

~田原藩主・三宅家の菩提寺「霊巌寺」~
https://blog.goo.ne.jp/hmazda_1950/e/397fbdc59bea2a107140d59101afee28


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Posted by たんぼ at 10:00
野田史