2023年08月21日
桜島安永大噴火 野田歴史 NO.33金五郎一家日常留
金五郎一家日常留は
南、鵜飼家所有の原本を故鬮目氏が
79歳の時に上下二巻にまとめたものが
野田区有文書として保管されている。
これは二代目金五郎勝能が、
隠居してから、日記や大福帳より
ひろい書きしたもので
一家の日常のみでなく、
多方面の事柄が記されている。
一部を現代文にすると、
安永八年(1777)正月十七日
北海道の甚八郎の母が
大久保の仲間と西国巡礼にゆく
十八日
市場の栄四郎が酒売りをはじめる
田原伝兵衛さんから酒を世話してもらいながら
二月廿日
法光院の釣鐘を牛久保の地金屋
惣右衛門で鋳ってもらう。
一尺八寸の鐘である
法華寺も与惣次で鋳る
二尺一寸もの、
しかし音が悪く気の毒に思って居る。
二月二十五日
大池さらえ、
仕事場を割り当て
上、下野田で千人程出る。
三十ケ村でおよそ
二千七百人の予定が五千人程になる。
御代官、御手代衆は芦村に御泊まり、
一汁一菜の食事をされた。四日間かかる。
安永七年(1778)
元旦より三日まで天気よく寒し。
八日 村々へ新年の祝酒をする。
十日 野田村中の役人をよぶ
二月一日 小塩津村にくじら寄る。
長さ二十二尋 (ひろ)→40M
(尋は、両手を広げた大きさ)
太さ同じ 見にゆく。
代金四十二両で
堀切村三郎左衛門、
三谷村 藤蔵ほか 四十五人で買った、
油はなかった。
廿ニ日 彦田薬師に参る
五月廿ニ日 大池にてふなを沢山とる。
六月三日 大雨が降る、
雷が芦村に落ち、久右衛門死ぬ。
九月五日 江比間村に相撲見物にゆく
安永八年(1779)
二月四日 善光寺参詣に十一人の有志が 出かける。
十九日 権助、徳四郎罷出(まかず)
下野田庄屋、弥左衛門の後役を
徳四郎に仰せつけられた。
五月廿五日 二、三十年ぶりの大雨で、
鵜飼新田、六、七間切れる、
庄屋と私 田原にゆき、
御手代、御奉行所を廻る。
一家のもの 五、六十人で
切れたところを修復する。
十月朔日(さくじつ)
天気よく法光院で御はんにゃがあった。
やがて西の方より砂と灰が降って来た
木の葉やまわりがしろくなる。
その後聞く話ではさつまの国、
桜島が吹き出したものであるらしい。
安永十年改暦
天明五年 元旦より三日寒く
(1781)近年珍しい寒さで
大池一面氷張り鴨が泳げないほどになる。
十三日 甚五郎十三歳になり、
はじめて秋葉山に参詣にゆかせる。
二廿一日 南、彦田より西国参り、京詣での人がゆく。
津島への参詣の人もいる。
二月七日 法華寺 日蓮上人五百年忌でよばれてゆく。
四月九日 夜、 大地震あり。
九月廿五日 馬草水神様の御遷宮があり、
伊勢より私が世話をする。
十二月廿ニ日 浜大引 廿七、八、九頃までよく漁れる。
天明五年(1785)
二月十四日 五人組御改。
十六日 保井村、北海道村が
京都本願寺参りにゆく。
廿日 善光寺参りに、
北海道おそめ、あため
西馬草浅右衛門の妻、
弥右衛門の嫁、出掛ける。
五月の節句より雨が降らないので
雨乞いを度々する。
六月三日 雨が少し降る。
十二月廿四日 馬草村 与三郎
名を徳次郎と改める。
廿一歳おとめと婚礼首尾よく相済。
甚十郎に世話を致してもらう。
文化九年(1812)
農あがりと六月の中に甚治郎普請、
家移りの予定、
六月一日 長屋を建てる。
六月十一日 便所が完成した。
蔵の造作、居宅造作も
六月廿日頃までに出来る。
引越を廿一日、馬、牛七匹にて
夜中、朝までに七駄運んだ。
( 駄は馬一頭に負わせる荷物の量)
甚八郎、茂八郎、忠太夫が手伝う。
廿六日までにあらまし引越をする。
一家衆より配り餅、二俵白米で届ける。
村方より酒を持って来た方へ
「家移り粥」ーヤアツリガイとよむー
酒などでもてなす。
田原山伏 正行院様に地祭り
御家礼をしていただき、
城宝寺様に仏壇の御勤をしていただく。
一家衆呼ばれ、晩方より村方衆も呼び
御酒、さかな、粥でもてなす。
吉田辺風邪ひき多く死人あり、
日に九人、十人と聞く。
吉田は四千人程の人口で
九月より十月末迄に、
二、三百人余り死人があったと伝えられる。
以上。
関連ウエブサイト
尋(ひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8B-536587
罷出(読み)まかず
精選版 日本国語大辞典
https://kotobank.jp/word/%E7%BD%B7%E5%87%BA-633373
朔日(さくじつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%94%E6%97%A5-509615
安永大噴火
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%B0%B8%E5%A4%A7%E5%99%B4%E7%81%AB
より転載
安永大噴火(あんえいだいふんか)は、
江戸時代中期の安永8年10月1日(1779年11月8日)から
天明2年(1782年)にかけてに発生したとされる桜島の噴火である。
噴火場所は(南岳山頂)、南岳南山腹、北岳の北東山腹から
北東沖合の海底(1780、1781年)であった
(中略)
1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で
海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。
転載終了。
駄(だ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%A7%84-556050
より転載
馬一頭に負わせる荷物の量。概略の量をさして助数詞的に用いるが、
江戸時代の一駄は、本馬(ほんま)が三六貫(約一三五キログラム)、
軽尻(からじり)が一六貫(約六〇キログラム)と定められていた。
転載終了。
三河吉田藩 - Wikipedia
関連動画
かごしま防災スイッチ「桜島の大正噴火」
https://www.youtube.com/watch?v=2Rq3MIuGkIk
南、鵜飼家所有の原本を故鬮目氏が
79歳の時に上下二巻にまとめたものが
野田区有文書として保管されている。
これは二代目金五郎勝能が、
隠居してから、日記や大福帳より
ひろい書きしたもので
一家の日常のみでなく、
多方面の事柄が記されている。
一部を現代文にすると、
安永八年(1777)正月十七日
北海道の甚八郎の母が
大久保の仲間と西国巡礼にゆく
十八日
市場の栄四郎が酒売りをはじめる
田原伝兵衛さんから酒を世話してもらいながら
二月廿日
法光院の釣鐘を牛久保の地金屋
惣右衛門で鋳ってもらう。
一尺八寸の鐘である
法華寺も与惣次で鋳る
二尺一寸もの、
しかし音が悪く気の毒に思って居る。
二月二十五日
大池さらえ、
仕事場を割り当て
上、下野田で千人程出る。
三十ケ村でおよそ
二千七百人の予定が五千人程になる。
御代官、御手代衆は芦村に御泊まり、
一汁一菜の食事をされた。四日間かかる。
安永七年(1778)
元旦より三日まで天気よく寒し。
八日 村々へ新年の祝酒をする。
十日 野田村中の役人をよぶ
二月一日 小塩津村にくじら寄る。
長さ二十二尋 (ひろ)→40M
(尋は、両手を広げた大きさ)
太さ同じ 見にゆく。
代金四十二両で
堀切村三郎左衛門、
三谷村 藤蔵ほか 四十五人で買った、
油はなかった。
廿ニ日 彦田薬師に参る
五月廿ニ日 大池にてふなを沢山とる。
六月三日 大雨が降る、
雷が芦村に落ち、久右衛門死ぬ。
九月五日 江比間村に相撲見物にゆく
安永八年(1779)
二月四日 善光寺参詣に十一人の有志が 出かける。
十九日 権助、徳四郎罷出(まかず)
下野田庄屋、弥左衛門の後役を
徳四郎に仰せつけられた。
五月廿五日 二、三十年ぶりの大雨で、
鵜飼新田、六、七間切れる、
庄屋と私 田原にゆき、
御手代、御奉行所を廻る。
一家のもの 五、六十人で
切れたところを修復する。
十月朔日(さくじつ)
天気よく法光院で御はんにゃがあった。
やがて西の方より砂と灰が降って来た
木の葉やまわりがしろくなる。
その後聞く話ではさつまの国、
桜島が吹き出したものであるらしい。
安永十年改暦
天明五年 元旦より三日寒く
(1781)近年珍しい寒さで
大池一面氷張り鴨が泳げないほどになる。
十三日 甚五郎十三歳になり、
はじめて秋葉山に参詣にゆかせる。
二廿一日 南、彦田より西国参り、京詣での人がゆく。
津島への参詣の人もいる。
二月七日 法華寺 日蓮上人五百年忌でよばれてゆく。
四月九日 夜、 大地震あり。
九月廿五日 馬草水神様の御遷宮があり、
伊勢より私が世話をする。
十二月廿ニ日 浜大引 廿七、八、九頃までよく漁れる。
天明五年(1785)
二月十四日 五人組御改。
十六日 保井村、北海道村が
京都本願寺参りにゆく。
廿日 善光寺参りに、
北海道おそめ、あため
西馬草浅右衛門の妻、
弥右衛門の嫁、出掛ける。
五月の節句より雨が降らないので
雨乞いを度々する。
六月三日 雨が少し降る。
十二月廿四日 馬草村 与三郎
名を徳次郎と改める。
廿一歳おとめと婚礼首尾よく相済。
甚十郎に世話を致してもらう。
文化九年(1812)
農あがりと六月の中に甚治郎普請、
家移りの予定、
六月一日 長屋を建てる。
六月十一日 便所が完成した。
蔵の造作、居宅造作も
六月廿日頃までに出来る。
引越を廿一日、馬、牛七匹にて
夜中、朝までに七駄運んだ。
( 駄は馬一頭に負わせる荷物の量)
甚八郎、茂八郎、忠太夫が手伝う。
廿六日までにあらまし引越をする。
一家衆より配り餅、二俵白米で届ける。
村方より酒を持って来た方へ
「家移り粥」ーヤアツリガイとよむー
酒などでもてなす。
田原山伏 正行院様に地祭り
御家礼をしていただき、
城宝寺様に仏壇の御勤をしていただく。
一家衆呼ばれ、晩方より村方衆も呼び
御酒、さかな、粥でもてなす。
吉田辺風邪ひき多く死人あり、
日に九人、十人と聞く。
吉田は四千人程の人口で
九月より十月末迄に、
二、三百人余り死人があったと伝えられる。
以上。
関連ウエブサイト
尋(ひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8B-536587
罷出(読み)まかず
精選版 日本国語大辞典
https://kotobank.jp/word/%E7%BD%B7%E5%87%BA-633373
朔日(さくじつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%94%E6%97%A5-509615
安永大噴火
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%B0%B8%E5%A4%A7%E5%99%B4%E7%81%AB
より転載
安永大噴火(あんえいだいふんか)は、
江戸時代中期の安永8年10月1日(1779年11月8日)から
天明2年(1782年)にかけてに発生したとされる桜島の噴火である。
噴火場所は(南岳山頂)、南岳南山腹、北岳の北東山腹から
北東沖合の海底(1780、1781年)であった
(中略)
1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で
海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。
転載終了。
駄(だ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%A7%84-556050
より転載
馬一頭に負わせる荷物の量。概略の量をさして助数詞的に用いるが、
江戸時代の一駄は、本馬(ほんま)が三六貫(約一三五キログラム)、
軽尻(からじり)が一六貫(約六〇キログラム)と定められていた。
転載終了。
三河吉田藩 - Wikipedia
関連動画
かごしま防災スイッチ「桜島の大正噴火」
https://www.youtube.com/watch?v=2Rq3MIuGkIk
Posted by たんぼ at 10:00
│野田史
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