2023年08月23日
田原市野田町 永久丸の漂流 勇次郎たち 野田歴史 NO.35
世界を夢見た勇次郎たち
永久丸の漂流
渥美郡江比間村の伊藤与一
持ち船百二十石の石積の回船
嘉永四年十二月二十六日
(西暦1852年1月27日)
志摩半島の麦埼島出帆し、
紀州熊野浦を目指したが、
志摩半島沖で冬特有の
大西風に遭い、激しい風と
流れの中死闘三日間
29日に舵が折れ帆柱を折って漂流。
乗組員は、沖船頭岩吉(66歳)
水主かこの善吉(44歳)
勇次郎(21歳)作蔵(21歳)
の四人であった。
岩吉 善吉は江比間村
勇次郎(芦村)
作蔵(赤羽根村)出身。
しばらく沖に流されたあと、黒潮に乗り、
東に流され、五日程で伊豆半島沖の
青ヶ島に三里程の海上まで漂い流れた。
しかし激しい風のため、端舟を降ろす事も出来ず、
そのまま更に東南の方向に流された。
永久丸の積み食料
玄米二俵・糯もちごめ 二斗
醤油十樽・大根二十本・水
雨水をためて水を得て
縄を輪にして
大鮫を捕獲してロクロで船に上げ
醤油漬けにして二十日の食料にした。
潤二月二十五日
(西暦1852年4月14日)夕方
船端に鮫が寄って来て
翌朝鮫を捕獲しようとした時
遥か沖に異国の船を発見し
その船に救助された。
約八十日間の漂流であった。
船名はアイザック・ハウランド号、
米国の捕鯨船であった。
救助の場所は
グアム島の北北東
約三百マイルの海上。
三か月後体力の回復
コミニケーションも取れるようになり、
捕鯨の船員となり、働いた。
カムチャッカの近海→
北極海→ハワイに着いた。
1か月後
年長の岩吉・善吉二人は
捕鯨船で韓国釜山
→対馬→長崎奉行所
嘉衛七年八月二十六日
(西暦1854年10月17日)
江比間村へ帰着。
若い二人は翌年アイザック・ハウランド号で
捕鯨の仕事従事。
捕鯨船の母港マサチューセッツ州
ニューベッドフォードへ。
1854年4月下旬着岸
ジョン万次郎に遅れて十年後。
その後、ボストン→ニューヨーク
ニューヨーク二十日間滞在→ボストン→
カリフォルニア→香港→下田奉行所→
下田信応院にお預け→田原藩
九月四日(1855年10月14日)
5年ぶりに田原に帰着。
田原城内にて厳しい事情聴取
田原藩の西洋式帆船順応丸
造船に従事
完成後、操縦訓練後水主として活躍、
身体を壊した勇次郎も
船が廃船になる文久三年
(1863)まで
田原藩の国内運輸に活躍した。
以上。
関連ウエブサイト
水手(かこ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E6%89%8B-539781
精選版 日本国語大辞典 「斗」の意味・読み・例文・類語
https://kotobank.jp/word/%E6%96%97-579152
小説「白鯨」で思い出す 捕鯨で栄えた町、かつてアメリカにもあった
https://globe.asahi.com/article/12859987
ニューベッドフォード捕鯨博物館
https://www.whalingmuseum.org/
21.下田奉行所跡 | 下田市
https://city.shimoda.shizuoka.jp/category/050202bunkazai/111159.html
白井勝蔵の豆知識 田原市
https://www.city.tahara.aichi.jp/seisaku/kakushukeikaku/1002990/1004852/1007515/1007559/1007567.html
麦埼灯台 三重県志摩市~青ヶ島~グアム島
グーグルマップ
永久丸の漂流
渥美郡江比間村の伊藤与一
持ち船百二十石の石積の回船
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(西暦1852年1月27日)
志摩半島の麦埼島出帆し、
紀州熊野浦を目指したが、
志摩半島沖で冬特有の
大西風に遭い、激しい風と
流れの中死闘三日間
29日に舵が折れ帆柱を折って漂流。
乗組員は、沖船頭岩吉(66歳)
水主かこの善吉(44歳)
勇次郎(21歳)作蔵(21歳)
の四人であった。
岩吉 善吉は江比間村
勇次郎(芦村)
作蔵(赤羽根村)出身。
しばらく沖に流されたあと、黒潮に乗り、
東に流され、五日程で伊豆半島沖の
青ヶ島に三里程の海上まで漂い流れた。
しかし激しい風のため、端舟を降ろす事も出来ず、
そのまま更に東南の方向に流された。
永久丸の積み食料
玄米二俵・糯もちごめ 二斗
醤油十樽・大根二十本・水
雨水をためて水を得て
縄を輪にして
大鮫を捕獲してロクロで船に上げ
醤油漬けにして二十日の食料にした。
潤二月二十五日
(西暦1852年4月14日)夕方
船端に鮫が寄って来て
翌朝鮫を捕獲しようとした時
遥か沖に異国の船を発見し
その船に救助された。
約八十日間の漂流であった。
船名はアイザック・ハウランド号、
米国の捕鯨船であった。
救助の場所は
グアム島の北北東
約三百マイルの海上。
三か月後体力の回復
コミニケーションも取れるようになり、
捕鯨の船員となり、働いた。
カムチャッカの近海→
北極海→ハワイに着いた。
1か月後
年長の岩吉・善吉二人は
捕鯨船で韓国釜山
→対馬→長崎奉行所
嘉衛七年八月二十六日
(西暦1854年10月17日)
江比間村へ帰着。
若い二人は翌年アイザック・ハウランド号で
捕鯨の仕事従事。
捕鯨船の母港マサチューセッツ州
ニューベッドフォードへ。
1854年4月下旬着岸
ジョン万次郎に遅れて十年後。
その後、ボストン→ニューヨーク
ニューヨーク二十日間滞在→ボストン→
カリフォルニア→香港→下田奉行所→
下田信応院にお預け→田原藩
九月四日(1855年10月14日)
5年ぶりに田原に帰着。
田原城内にて厳しい事情聴取
田原藩の西洋式帆船順応丸
造船に従事
完成後、操縦訓練後水主として活躍、
身体を壊した勇次郎も
船が廃船になる文久三年
(1863)まで
田原藩の国内運輸に活躍した。
以上。
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https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E6%89%8B-539781
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https://www.whalingmuseum.org/
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Posted by たんぼ at 10:00
│野田史
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