2023年12月06日
渥美町歴史 湊口今切 NO.25
湊口今切 (みなとぐち いまぎれ)
「湊口今切」
と言うのは、大字向山の集落東側の欠磯のことである。
元禄元年(1688)の畠村の文書に
元禄元年から70年以前の元和年間に、
大風雨で外海との間の洲が切れ、
古田、畠港への船の出入りがあると書かれている。
港口今切が航路となる前は、
今の福江港への船の出入りは、
貝の浜の方?からで不便であった。
福江湾内は潮干狩りの出来る干潟が多く、
みよと言われる水深のあるところしか商船は
通る事が出来ない。
今切口が出来て、随分便がよくなった。
向山新田が開発される以前、
海は保美台地のところまで、
入り込んで居た。
嘉慶元年(1387)
南北朝時代、月江正公和尚が
潮音寺開創したとき、
潮の音が聞こえるところから
潮音寺と名付けられた。
江戸時代中期、
古田、畠湊が繁盛するようになったが、
水深が浅く、今切口から入港出来る
商船はにたりと呼ばれ
150石から200石積みくらいの
船底が平らなものか、
小型船(いさば)であった。
以上。
関連ウエブサイト
潮音寺 (田原市) - Wikipedia
似関船とは - わかりやすく解説
五十集船・磯場船(いさばぶね)とは? 意味や使い方
関連マップ
地元でないので推定の場所。
港口今切
グーグルマップ
保美町~潮音寺~向山町
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「湊口今切」
と言うのは、大字向山の集落東側の欠磯のことである。
元禄元年(1688)の畠村の文書に
元禄元年から70年以前の元和年間に、
大風雨で外海との間の洲が切れ、
古田、畠港への船の出入りがあると書かれている。
港口今切が航路となる前は、
今の福江港への船の出入りは、
貝の浜の方?からで不便であった。
福江湾内は潮干狩りの出来る干潟が多く、
みよと言われる水深のあるところしか商船は
通る事が出来ない。
今切口が出来て、随分便がよくなった。
向山新田が開発される以前、
海は保美台地のところまで、
入り込んで居た。
嘉慶元年(1387)
南北朝時代、月江正公和尚が
潮音寺開創したとき、
潮の音が聞こえるところから
潮音寺と名付けられた。
江戸時代中期、
古田、畠湊が繁盛するようになったが、
水深が浅く、今切口から入港出来る
商船はにたりと呼ばれ
150石から200石積みくらいの
船底が平らなものか、
小型船(いさば)であった。
以上。
関連ウエブサイト
潮音寺 (田原市) - Wikipedia
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五十集船・磯場船(いさばぶね)とは? 意味や使い方
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地元でないので推定の場所。
港口今切
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Posted by たんぼ at 08:00
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